○○と、僕

日々思うことのつらつらぶろぐ

誰かを救う

最近、YouTube以外のメディアを目にする機会が増えた。

 

Twitterに新しく追加された、スペース

声のみのコンテンツ、ポッドキャスト

など

 

"ながら聴き"

 

自分は別作業しながら耳だけ傾けるというのが得意ではないけども、昔からあるラジオのように"ながら聴き"のできるメディアはきっと今の時代にも合っているんだろうね。

 

その中でも、スペースや個人ブログというのは特にその人の(本音という)声が非常に露わになるメディアだなぁというのを最近よく感じる。

 

ちなみに僕自身はスペースをやりたいとは一切思わない。
あくまで僕の意見なので、やっている人に対して特に何も思わないが、誰かとの意見交換に然程重要性を感じていないのだと思う。

僕が大切にしたいものは、僕自身の考えと僕の半径5m範囲の友達の価値観だけなので、顔も素性も知らない関係性の中で自分の意見をぶつけたり逆に聞いたりするディスカッションのような場所に価値を見出せないでいるんだと思う。
ハッキリ言ってしまえば赤の他人の思う事に差して興味がないし、よく知らない人に自分の意見を言いたくないって思ってる。

 

 

「そういうとこだよ」
と、僕を知ってる一部の人は言いそうだけどまぁ、これが僕なので。笑

 

 

逆にブログは自分的に価値があるツールだと感じてる。気になる人だけが覗きに来ればいいだけなので。
と書いてて思ったがスペースが苦手な理由。上部に随時表示されてるあの感じが苦手なのかもしれないな。非表示設定ができればお好きにどうぞーって思えるんだろうけど、「ほら、やってるよ。ほら、聞きなよ」って言われているようで「押し付けんなやっ!」って思っちゃう。笑

 

最近周りでもブログを書いてる人も増えて、ちょこちょこ覗きに行ってるが、表層的な部分しか知らなかったんだなぁーと、ヒリヒリする程内面をぶちまけているブログや、その人の根幹にある人格を形成する上で起きた経験や価値観、悩みや苦悩がブログでは垣間見えるので、ブログが好きだ。それに実際にその人に会った時に、何だか勝手にその人の事を知った気分になってより好きになってしまうのもまた良い。

単にテキストで追えるツールが好きなのかなぁ。理由は明確ではないけど、今はいろんな人のブログを読んでは感化されている。

 

僕のブログは日記のようなもんだし、ためになることも誰かのためでもないのだけど、それでも友人が「ブログ見てるよ」って言われるとむず痒いけどちょっと嬉しくなってしまう。昔で言うmixiの日記を見たよー。と言われる感覚に近いんだろうな。

 

 

誰かを救っていこう

 

 

先日宅飲みで出た各ツールに対する答えで出てきたワード。

お邪魔したお宅のお家がめちゃくちゃ素敵過ぎて引っ越し欲爆上がり。引っ越ししたからといってあの素敵なお家は再現できなさそう、、、センスあるって素敵だよなぁ。

 

当たり前になったYouTubeは、誰かを救っていて

誰かのスペースは、何処かの誰かを救っている。

誰かのブログは、誰か(僕もその一人)を救い

拙い言葉だけのこのブログすら、きっと誰かを救っている(...のか?w)

 

 

救うなんて言葉は烏滸がましいのかもしれないけど、誰かの暗闇には誰かの声が光として、誰かの苦悩には誰かのテキストが傷を癒す一つのツールとして存在するのであればそれは素敵な事だと思う。

 

何気ない発言が人を追い込む事もあれば人を救う事もある。言葉や声には想像以上の力があることを最近改めて気付かされている。

 

人って面白い。