○○と、僕

日々思うことのつらつらぶろぐ

伊勢旅、祈りと、僕

1泊2日のGoToを使用し「一度は行っておきたいね」という事で
伊勢参りをメインとした旅行に行ってきた。

5時起き6時半の新幹線というハードスケジュール。
おまけにメンバーが作ってくれた『しおり』によると分刻みのスケジュール。笑
僕は伊勢に詳しい方ではないですが、外宮・内宮と回るには相当時間を調整しておかないといけないという事で、『しおり』には伊勢の歩き方が数ページに渡りプリントされており、さながら修学旅行生の気分。マメな人って有難い。(他力本願。笑

いざ、外宮からお参り。
時期が時期だから、そんなに人も多くないらしく(と言っても結構人はいた印象ですが)とても心の落ち着く、穏やかなお参りとなりました。

「凛」とした空気、木々の中を歩いているので涼しいのにちょっと汗ばむ。
神社やお寺に行くとよくなるこの現象は一体何なんでしょうね...


外宮から内宮へは少し距離があるため、バスで移動。
樹齢数百年にもなるであろう大木に圧倒されつつも、内宮は更に空気が気持ちいい気がして終始穏やかな気分でした(文才ないんで陳腐な言い方ですいません...)
内宮へのお参りの際、石段を登り鳥居を抜けるのですが、今までいろんな名所を見て来てもあまり感じなかった感情が、ふと。

古来から現在まで、幾多という言葉では言いきれないほどの数多くの人々がここへ足を運び祈り、願い、感謝を伝えにこの石段を登り鳥居を抜け、手を合わせる。
想像出来ない程の人達の想いを受けている内宮という場所に自分もいて、同じように感謝を伝え、祈る。その事がとても貴重で且つ有難い事なのだと改めて気付いた気がする。

 

僕は小さい時から所謂「信仰」というものに無頓着だった。
嫌悪という感情を抱いていた、という方が正しいのかもしれない。
それは≪目に見えないものに≫縋るように見える祈りという姿そのものが、幼い頃から嘘臭く感じていた。小さい頃祖母に「(手を合わせ祈る)そんな事に何の意味があるのか」と何度も訪ねては怒らせた記憶がある。
成人してからも自分の信仰という価値観にあまり変化はなく、寧ろ成人した事により嫌悪は拡大していったような気もする。

目に見えない、不確実な存在を崇めるというのは自分の無力さを示しているようなもの

誰に(何に)願っても他人に自分の人生を生きてもらう事はできない。であればその祈りとは一体何なんだろう。何を祈り、何に感謝し、何に手を合わせるのか?心のどこかではいつもそう感じていた。実際に自分が無力以外の何者でもないとわかっているが故に、祈りという行為を認めたくないという思いがどこかにあったのかもしれない。

そのお陰(?)なのか、未だに大仏様やお釈迦様の類が苦手である。苦笑
嫌悪を抱いているお前をちゃんと見ているぞ、浅はかな考えを持っている僕を叱責されているような、全て見透されているような.....そんな気分になってしまうため今も苦手...というか、怖いという言い方の方が正しいですね。笑

少し前に彼氏に「何にとか誰にとかが大切ではなく、祈る事でその人自身の心の平穏を保つためじゃないかな」と言われた事がある。今回の伊勢参りで内宮の石段から鳥居を眺め、多くの人達が行き交うその場で立ち止まった際に「あぁ...自分がずっと感じていたモヤモヤはこういう事だったんだ」と気持ちが少し晴れた気がした。

この混沌としたご時世、誰も予想しなかった現状、見えない恐怖、自身と他者の正義という価値観の違い、不安や恐れ、自身の心を正常に保つのでさえ大変なこの時期に、僕は大切な人・人達と傍にいて、不安であれば不安を言葉にできる。仮に欲しかった言葉が返ってこなかったとしてもそこには確かに「誰か」がいる。受け止めてくれる人がいる。一人ではない。

その状況はとても、物凄くとても貴重で大切な事なのだと。

それは決して一人では作りえる事のできない
≪自分という人間≫がいて初めて生まれる≪輪≫なのだと。

それを考えると本当に感謝でしかなく、手を合わせ、今ここにいる事を感謝するというこの行為は無力であるとかまったく関係の無い、純粋な心の現れとして表現しているのだな、と気付きました。

この歳になってその考えかよ。と笑われるかもしれません、考えてみれば当たり前の事も僕自身、斜に構えているところがあるからなのか?単純に馬鹿なのか?自分でちゃんと経験をしないと飲み込めないところがあり、今回は正にちゃんと自分で心から体験をした事で気付いたのだと思います。

(脱線しますが、僕は馬鹿という言葉が嫌いです。愛情表現で使う馬鹿という言葉(を言い合える仲)はとても愛おしいですが。笑)

幾つも見てきた神社仏閣だったはずですが、この状況下の中、少し斜めに見ていた世界が少し真っすぐになったような晴れやかな気分で内宮を後にしました。
お伊勢はそんな事を感じるところじゃない!と言われちゃいそうですが。

 

※祈りや願い、信仰には沢山の意味があると思います。
あくまで僕が実感し、感じた事をここでは記しています。あしからず。

 

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ここでメンバーと一旦分かれ、彼氏の祖母のお墓が近くにあり今年3回忌だったがコロナの影響で来れていなかったという事で同席させてもらう事に。
墓石を洗い、古くなった榊を代え、線香を焚き手を合わせる。
<通算13年一緒にいさせてもらっています、ありがとうございます。>
ここでも感謝の念しかなく、それを示すため手を合わせる行為は少し照れくさくて恥ずかしい、だけど誇らしい気持ちになりました。

 

名古屋に戻ってきてからは名物を食べ、酒を飲み、モーニングをし、名古屋城を見て、美味しいパン屋に寄り、ひつまぶしを食べて帰ってくる食い倒れとなりました。

この数カ月こんなに歩き回っていなかったので筋肉痛で泣き崩れています。笑

 

この旅はご近所メンバーと更に親睦を深める事ができたのも大きかったけども、僕自身の心の引っ掛かりを解きほぐす事の出来た旅でもあり、いろんな事を得たとても有意義な旅行となりました。

 

また旅行に行きたいなぁ。
今度は温泉でゆっくり、がいいかな。
勿論食い倒れで。笑